映画から生まれた映画『オールド』


映画『オールド』

今回は、もし人間が一日で50年(?)も歳をとってしまったらどうなるのか、というのがお題で、それに対するシャマラン流の回答がこれだ。
映画らしい映画!とまず思ったのは、ドキドキ感や、観た後の感興など、シャマラン監督が発明したサスペンスが新鮮で健在だ、と感心もし感銘も受けたからだ。
バカンスを楽しみに来た複数の家族が、すばらしい場所だという誘いにつられて、秘密のビーチにやってくる。
そこは切り立つ岩山に囲まれた美しい場所で、来た当初はそれぞれが気に入って海と砂浜を楽しむが、そのうちに異変がやってきて、家族たちは混乱に陥っていく。
なにしろ30分で一年分歳をとってしまうのだから、6歳だった息子は、後から遅れてきた家族からみたら、どうみても11歳になっていて、11歳だった娘は16歳になっているのだ。ここからが、混乱と恐怖で、いわゆる映画のお楽しみの部分、というか饅頭のあんこにあたる部分だ。
シャマラン監督の映画たちは、始めに平穏な日常があって、次に人間の心理のスキをつく恐怖感のようなものがあって、謎解きがあり、結末に至るという流れだ。サスペンスや恐怖、さらに不条理は、謎解きというか隠されていたものの開示によって、ある意味知的なフィルターに浄化されてしまうということがあって、独特の後味で劇場をあとにする。ここが、他の多くの恐怖を極めるスプラッター映画とは違う部分だ。
と、じつはここまでが、これまでのシャマラン映画の面白さだったと思う。
これまでのシャマラン映画は、どちらかと言えば脳みその前頭葉の部分の体操のような趣があって、こころの部分や教訓めいたものが少ない。
今回は、めずらしくその教訓めいたものがあってこころに沁みた。

これ以上は詳しくは書かないが、ちょっと脇道にそれてシャマラン監督をおちょくらせてもらえば、自分の映画にたびたび登場するナルシストのシャマラン監督が、浜辺の監視役として自分が登場するシーンが気になって、その直前の、今しかない老夫婦の大事な会話のシーンの編集をやや印象の薄いものにしてしまったのではないか、と危惧している。
ただ、はじめに書いた映画らしい映画!、にもどると、私たちは、映画を観るたびに、じつは観ている間の時間(たとえば1時間半とか2時間)に、他人(登場人物)の数十年の人生を目撃するのにはなれているはずだ。
ひょっとすると、シャマラン監督は、映画の中で起こる数十年を、閉じ込められた浜辺でとぎれなく起きたらどうなるのか、と考えたのかもしれない。
もしそうなら、この映画は、映画の中から生まれた映画、と言い換えてもよいかもしれない。

©hiroshi sano

監督 ナイト・シャマラン
公開 2021年9月